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リストカット
メンタルサイトをのぞくと、実に多くの人達がリストカットをしている。
テレビドラマなんかで自殺の手段として使われることもあるが、軽く手首を切った程度の出血では、お湯につけていたって死ぬわけがない。動脈に達して、血しぶきが天井まで届くくらい切ったなら話は別だが。
そういえば、中学の頃、同級生が手首に包帯を巻いて登校してきたことがあった。「お風呂場で滑って怪我した」と言っていたけど、私や周りの友人達は「ためらい傷?ためらい傷?」と冷やかして笑っていた。当時はそんなことする人が身近にいるわけないと思い込んでいたけれど、もしかしたら本当にリストカットだったのかも知れない。
私だってその何年か後には同じことをするようになったのだ。

メンタルサイト「BLUE」にも、リストカットをしている人は大勢いたが、BLUEに出入りするよりもっと早い時期に、別のメンタルサイトで見かけたことがある。
元彼の浮気相手が「境界性人格障害」という精神疾患なのではないかと、心理学を専攻している大学院生の人に指摘されたときだ。パソコンでその疾患名を検索して、個人のホームページに辿り着いた。
真っ黒の背景に赤のフォントが使われているホームページ。境界性人格障害についての説明や、DSM−犬凌巴粘霆爐覆匹盞悩椶気譴討い燭茲Δ傍憶しているが、当時の私にはさっぱり意味がわからなかった。「何なのこの病気?」掲示板もあったので、彼女達のやり取りも見てみる。やはり当時の私にはさっぱりわからない、傷の舐め合いばかりしているように見えた。
「彼氏にそばにいてほしくて、また手首切っちゃった」
「もうしないって約束したのに、また切っちゃった」
「辛いよね。しんどいよね。私も辛くてたまらなくて、また薬飲んじゃった」
だんだん気持ちが悪くなってきて、もうそのホームページは見ないようにした。そのときは失恋してひどく落ち込んでいるだけで、自分にはそんな要素は微塵もないと思い込んでいたのだ。私は絶対こんな風にならない、とさえ思っていた。でも次第に落ち込みがひどくなっていき、精神科に通うようになる。BLUEや樹音さんに出会い、半ば偏見を持って見ていた世界に、私もすんなり溶け込んでしまう。

手首を切ったらあの人にわかってもらえるんじゃないか。あの浮気相手と同じくらい辛い気持ちを抱えているとわかってもらえるんじゃないのか。
精神科に通い始めて2ヶ月ほど経った頃のある夜、どうしようもないイライラを抑え切れなくて、ふとそんな風に考えた。唸り声を出しながらはさみを手首に当ててみた。かすり傷のようなものしか出来なかったが、それ以上は切らなかった。
結局、リストカットしたと言っても、元彼が私のところへ戻って来てくれることはなかった。あの浮気相手も「切ったらスッキリする」と言ってリストカットをしていたらしいが、私ははさみで手首にうっすら線を引いただけで、比べ物にならないほどの傷しか作れなかった。

それからしばらくは自分を傷つけるようなことはせずに、多忙な毎日を過ごしていた。再びリストカットのことが頭をよぎるようになったのは、心理学の授業と芝居の稽古で、本当に忙しくなって余裕がなくなり、漠然とした不安や、何とも表現しがたいもどかしい気持ちにまとわりつかれていた、2回生の6月。自分のウェブ日記を持つ直前のことだ。もっともっと頑張らなければいけないのに、上手くいかないことばかりで八方ふさがりになっていた。
メンタルサイトで知り合った人達は皆、切った時の気持ちや、何のために手首を切るのかを書いていた。切った後は少しは落ち着くという人も。
舞台に立ち人前で演技することを望んでいる身なのだから、体を傷つけてはいけないという気持ちもあった。でも、もうどうすればいいのかわからない。他に具体的な解決策が見つからない。
どうすればこの気持ちを落ち着けることが出来、今目の前にある目標に邁進することが出来るのだろう。
稽古が休みの日の夜、パソコンの電源をつけたまま傍らのベッドに座り、机の引き出しからカッターを取り出した。私は左利きだったので、右腕のどこに傷をつけるか考えた。
手首にするとすぐばれるだろう。肘に近い腕の内側に2・3本、うっすらと線を引いた。血がにじんできたので、ティッシュで拭いた。
あっけなかった。切るまではあんなに悩んだのに、切ってみたら意外と何でもなかった。もちろんその1回では済まず、それからも何度か腕を切った。稽古場で「ミキさんのその傷はリストカット?」と聞かれて、慌てて取り繕ったこともあった。でも誰も本当には気づいておらず、冗談で聞いただけだったらしい。
傷が増えると怪しまれるので、かさぶたが出来たところをもう一度切った。切ったそのときは落ち着くような気はしたが、長くは続かず、当然それによって何かが解決するわけでもなかった。

そんな風にして、時々、目立たないように気を使ってリストカットをしていた。血が飛び出るほど豪快には切れなかったけれど、それくらい派手に切っている人のホームページへ行き、血まみれになった手首の写真を見ていると何故か落ち着く気がした。
自分もリストカットの写真を撮ってインターネット上に掲載しようとは思わなかったが、傷を写真に撮って、頼りにしている人にメールで送ったことがあった。その人の言動から、裏切られたと思って腹が立ったからだ。「やめなさい」と言われたが、悪いことをしたとは思わなかった。あなたが私を傷つけたのだから、これくらいのことはして当然でしょうと思っていた。

そして、大学の授業に顔を出さなくなった頃、最後に出演した公演の本番1週間前から、本格的に手首を切り始めた。どうせ自分は死ぬ運命にあるのだから、どこを切ったっていいだろうと思ったから、公演期間中は周りの人達にばれないように長袖で隠して、毎日のように家で切った。インターネットで「これは切れ味がいい」と評判だった剃刀をわざわざ買ってきて、切った。
公演が終わってから毎日家にいるようになってからも時々切った。南条あやの本に触発されてリストカットをする人もいるようだが、私もその一人だったことに間違いはないだろう。診察を待つ間「あと何番目ですか?」と聞こうとして入った処置室に注射器の針が沢山置かれていて、看護師さんがいないのを見計らって3本ほど盗んでしまう。掴んだ次の瞬間に看護師さんがこちらへやってきたので、慌てて後ろ手に隠した。ばれなかった。持って帰って、薬と一緒にしまった。
さらには、大学の保健センターでも、薬品棚に鍵がかかっていないことに気づき、注射針を何本か盗んだ。こちらは私が入ってきたことにすら誰も気づかなかった。
南条あやが保健室から注射器と針を盗み、腕から血を抜いて遊んだのと同じように、私もシリンジとビーカーを買ってきて、腕に注射針を刺して血を抜いた。上手く抜くことが出来ず、ビーカーの中で少量の血がスライムのように固まり、気持ち悪いのですぐに洗面所に流した。腕は真っ青に腫れた。懲りずに何度か繰り返したが、同じように買った止血帯で腕をきつくしばって、沢山血が出るようにして手首を切り、タオル一面が真っ赤に染まるまで血をしぼり出すときの方が、よっぽどスッキリしていたかも知れない。
これらの行為は、復学するまで続いた。

オフ会のとき、樹音さんに腕の傷を見せてもらった。ケロイド状の筋が手首だけではなく腕一面にびっしりと残っていて、私ごときの切り方では比べ物にならなかった。本当にリストカットにはまってしまった人は、それくらい切っている。
はるさんも、いつからか手首をきるようになった。臨床心理士さんとの別れが近づいてきた頃からだろうか。オフ会のときにはもう「切っている」と言っていた。切ったときの写真もホームページの日記に載せていたことがあった。が、主治医からは「そんな、犬や猫に引っかかれた程度の傷」と言われてショックを受けたとのことで、どれだけ深く切れば、どれだけ沢山血が出れば、それだけ辛いと認めてもらえるんだろうと日記にも書いていた。
あゆかちゃんはかなり豪快で、荒れていた頃は毎日のようにリストカットをしていた。樹音さんと同様、手首から腕までケロイド状の傷跡がびっしりとついている。そして、私がやっていたのと同じ「瀉血」を彼女もやっていた。私よりもはるかに上手(?)で、500mlのペットボトルを1本満タンに出来るくらい大量の血を抜くことが出来た。1度で1リットルを抜き、フラフラになったこともあるらしい。リストカットと瀉血のしすぎでひどい貧血になり、病院から鉄剤を処方されていたこともあったそうだ。

私は樹音さんやあゆかちゃんが羨ましかった。どんなに力いっぱい剃刀を押し当てても、血が飛び出るほど深くは切ることが出来なかった。深い傷を作り、沢山血を流した人の方が、より深い悲しみや苦しみを表現出来ているような気がした。その方が他者に自分の辛さをわかってもらえるんじゃないかと思っていた。
はるさんも「どれだけ深い傷を作れば、どれだけ沢山の傷を作れば、自分の辛さを認めてもらえるんだろう」とウェブ日記に書いていた。激しいリストカットは、メンヘラーのステータスのようなものだった。

復学する頃には自然と手首を切ることはなくなった。そういうことをしても決して気持ちが楽になるわけではない、今の辛い現状が解決されるわけではないというのが、何となく実感出来たからだろうか。
アルバイトも始めたし、芝居も続けるつもりだし、生き残ってしまった以上、手首に傷を増やし続けても不利になるだけだとも気づいていた。
それでも、どうしても切りたくて我慢出来ないときは、赤いマジックで腕いっぱいに線を書いた。切って切って切りまくって・・・の代わりに、書いて書いて書きまくった。腕は肌色の部分が見えないくらい真っ赤になった。
本当にリストカットをしていた時期に、それくらい切ることが出来ていたら、どうだっただろうと想像する。言いようのない辛さや苦しさを少しでも他者に理解してもらえただろうか。

30歳になった今でも、手首や腕に小さな傷がいくつか残っている。夏になると日に焼けて、ケロイド状の痕が余計に目立つ。周囲の人達は気づいているのだろうかと不安になるときもあるが、私は隠すことはしない。子どもに聞かれても、この傷は私の「生きた証」だときちんと説明しようと思っている。
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第10章・オフ会

 2005年2月21日早朝。私は岐阜に向けて出発した。
特急列車や新幹線を使わず、鈍行で行く計画を立てた。アルバイトもしておらず、お金のない私にはぴったりだったし、何故かそうしてみたいと思った。時間は沢山あるのだから、ゆっくり行けばいい。
高1の夏休みに、福井県の知り合いの家に一人で遊びに行ったことがあったが、それ以来の一人旅だった。現地に友人がいるのだから、一人旅と言っていいのかどうかわからないが。でも、会いたい人達に会えるのをとても楽しみにしていた。
実はその前に、樹音さんとあゆむさん、志信さんとは一度顔を合わせていた。
樹音さんとあゆむさんは10月に出演した私の舞台公演を見に、わざわざ大阪までやって来てくれたのだった。演目が精神疾患を扱っていたので興味を持ってくれたようだが、とても驚いたし嬉しかった。皮肉にも私は精神科医の役をもらっていて、精神科に精通している二人の前で下手な演技は出来ないと緊張したものだ。
せっかく足を運んでもらっても、公演中はスケジュールがタイトで、終演後にゆっくりおしゃべりなんてことは叶わなかった。簡単な挨拶をするくらいの時間しか持てず、とても残念だったが、半年以上もインターネット上でのやり取りを通じてイメージを膨らませていたおかげか、現れた二人は、ほぼ私の想像通りの容姿と雰囲気だった。物静かで落ち着いていて、二人とも眼鏡をかけていた。穏やかな笑みと共に、差し入れにとくれたピンクの花束は、きれいなドライフラワーにすることが出来、長い間私の部屋に飾られていた。
志信さんは、私が学校に行けなくなり、死に物狂いで最後の公演の稽古にだけは足を運んでいた11月に出会った。彼女は別の友人と大きな劇団の公演を見た帰り、私は稽古に行く途中で、駅で待ち合わせして一緒に電車に乗った。移動中の少しの時間だったが、話すことが出来た。大ファンの役者さん達とロビーで会うことが出来たという志信さんは興奮冷めやらずと言った感じで、もう一人の友人の女性と芝居について熱く語り狂喜乱舞していた。アシンメトリーのショートカットで、服装もカジュアル。テンション高く、彼女も私のイメージぴったりという感じだった。
けっこう沢山の人が乗っている電車の中だったにも関わらず、私達は精神科のことや薬のこと、リストカットや知り合いがオーバードーズした話まできゃあきゃあと語った。うつ状態がひどくなり疲れ切っていた私に、志信さんは、自分が処方されていた強力な精神賦活剤を「内緒だよ」と言って分けてくれた。私が会う前に譲ってほしいと頼み込んでいたのだ。それをお守り代わりにし、公演本番で少しずつ飲み、何とか乗り切ったのだった。
「見に行けないけど頑張ってね」別れ際、志信さんは電車の中から手を振ってくれた。3人とも、わずかな時間しか会うことが出来なかったので、今度こそはゆっくり会って話したいと思っていた。

旅の2日前に誕生日を迎え、20歳になった。年上のお芝居仲間達がお祝いしてくれた。私が病んで死にたい死にたいと言っているのを心配して、集まってくれたのだ。20歳になったら真っ白な光に包まれて消えるという妄想は現実にはならなかったが、ケーキやプレゼントまで用意してわざわざパーティを開いてくれた先輩達にはとても感謝している。
その次の日、とある学生劇団の公演に顔を出し、そこで人間関係のトラブルに巻き込まれてしまう。社交辞令を鵜呑みにしてお手伝いを買って出たり、打ち上げに混ぜてもらったりした私にも非はあるのだが、そのときその場にいなかった人達がトラブルに首を突っ込み、全て私が悪いと結論づけていたと後から聞いてものすごくショックを受けた。詳しくは書かないが、男女関係のもつれに巻き込まれ、こちらだって被害者の一人だったのに、何故私がそこまで悪者扱いされなければならないのか、全く納得出来なかった。
でも、そのとき取った私の無神経な言動のせいで、傷ついてしまった人がいたのは確かだった。布団に入ったものの悪夢で何度も目が覚め、ろくに眠ることも出来ず朝を迎えた。家を出る前に泣きながら剃刀で手首を何度も切り刻み、身支度をしている間も泣き、真っ赤に目が腫れた自分の醜い顔を鏡で見てまた泣けてきた。
やっぱり私は生きていてはいけないんだ。余計なことをして、人を傷つけて。誕生日に死ぬべきだった。もう大阪には帰らないでおこう。そう思って、遺書を書くための白い便せんと、飲まずに溜め込んでいた薬300錠をカバンに詰めて家を出た。みんなと会った後、薬を全部飲み、フラフラになって入水すれば静かに死ねるだろう。傷つけてしまった人の人生までをも私は狂わせてしまったんだと思い込み、行きの電車の中でもこらえ切れずに泣き続けていた。

岐阜に着き、とりあえず気を取り直して、駅のトイレで身だしなみを整えた。あれだけ泣いたけれど、目の腫れは少し治まっていた。
樹音さんと志信さんはミスタードーナツに先に入り、お茶を飲んでいた。とうとう会えると思うと緊張したが、もうインターネットやメールで何度となくやり取りを交わしてきた仲だし、顔だけなら一度は合わせている。特に違和感もなく席について、私も話し始めた。
あゆむさんは来ることが出来なかった。直前に歩道橋から飛び降り自殺を図り、助かったもののベッドから起き上がれない状態になっていたのだ。かろうじてメールは出来るらしく、お見舞いに行きたいと言ったが、断られてしまった。会えなくてとても残念だったし、知っている人が自殺未遂をしたのは初めてだったので、かなり驚いた。
間もなくしてはるさんから連絡が入った。後少しのところで道に迷っているらしい。事前に教えてもらっていた携帯に電話をかけてみる。コール音が鳴ってから「そういえば初めて声を聞くなあ」とちょっとドキドキした。電話に出たのは、お人形がしゃべっているような、高くてかわいらしい声。びっくりした。
「どこですか?」「えーっと、ミスド、どう説明すればいいかな。マツモトキヨシの近くやねんけど・・・」と言いながら樹音さんと一緒に店を出てウロウロしていると、黒いコートの後ろ姿が見えた。「あの子だ!」と確信し、「はるさん!こっちこっち!」と大声で叫ぶ。振り返ると本当に人形のようで小さくてかわいらしい女の子。
正直なところ、イメージとは全然違った。もちろんホームページのプロフィールを読み返してみると、身長は153僂覇鹸蕁△嬢様っぽい服が好みであることは書かれているのだが、いつも儚げで気分の移り変わりの激しい文章の奥には、一本芯の通った大人の女性が見え隠れしているようにも思えて、長身でふっくらとした女の子を想像していた。こんなに華奢で可憐な子だったとは。そして馬鹿正直に本人にそれを言ってしまった気がする。苦笑いしていたっけな。そりゃそうだろう。

ミスタードーナツに戻り、再びお互いの自己紹介から始まる。
当たり前だが、インターネット上で一度話しているエピソードでも、実際に会い声を使ってしゃべり耳を使って聞く方が、よほどわかりやすく実感を伴って話し合うことが出来た。話の内容は、病気のこととか薬のこととか病院のこととか、決して明るいものではないのだけれど、それが一種のアイデンティティのようになっている私達にとっては楽しい話題だった。
話しているうちに、だんだん昨日の最低最悪な出来事は夢だったんじゃないかと思えてきた。が、右手首の新しい傷は、それが夢ではなかったことを証明している。
はるさんは自分のホームページに書いていたのと同じように、臨床心理士さんに依存していること、その心理士さんが退職するので、今のカウンセリングが3月末で終了してしまうことなどを話していた。境界性人格障害特有の症状である「自分がバラバラに感じること」などについても。
「子どもの頃の私は好きなテレビを見ることが出来なかったのに、今は一人暮らしの部屋にテレビがあって好きな時に見ることが出来る。そういう、昔の自分が手に入れられなかったものを今の自分が手に入れていることに対して、昔の努力してきた自分に申し訳ないと思う」というようなことも言っていて、それに対して私は、どんな内容かは忘れてしまったが、取ってつけたような激励をこんこんとしてしまった。彼女は黙って聞いてくれていたけど、私が放った陳腐な言葉が彼女の心に届いていたはずはない。しまった、どうしよう、嫌われるかな…と不安に陥ったが、彼女は何故か「かわいい」と言いながら私の頭を、犬にするみたいにワサワサッと撫でた。驚いて一瞬ポカンとしてしまった。同い年の女の子にそんな風に頭を撫でられるのは初めてだったからだ。でもはるさんが私を嫌いではないことはよくわかったような気がした。
志信さんがはるさんと私にリタリンを1錠ずつくれた。はるさんは初めて見るリタリンに感動していた。私達は悪びれることもなく普通にそれをミスドのドリンクで飲んだ。リタリンのせいか初めてのオフ会の雰囲気のせいかはわからないけれど、私達はその後も饒舌に話し、気がつけば随分長い時間ミスドに滞在していた。その間に志信さんとはるさんはドーナツと飲茶を食べ、驚いたことに樹音さんはおかわり無料のコーヒーを13杯も飲んでいた。「そんなに飲んで大丈夫なの!?」とみんなびっくりして笑った。
最初は2泊の予定だったが、はるさんが泊めてくれるというのでもう1泊延長することにし、ミスドを出た。この日は樹音さんの下宿先に泊まらせてもらう約束をしていた。バスに乗り、静かな町に入っていく。バスの中で障害者手帳を見せてもらった。初めて見る障害者手帳。提示するとバスや電車の運賃が無料(安くなる?)らしかった。
雪は積もっていなかったと思うが、夜はとても寒く、大家のおばさんが電気毛布を出してくれた。志信さんも一緒に泊まった。中華料理を食べに行き、お風呂を借り、夜遅くまでおしゃべりした。途中、私が死ぬつもりで300錠の薬を持ってきたことを話すと、二人とも薬の内容を聞いて爆笑していた。「デパス300錠なんて、めっちゃ眠くなるだけだよ〜」と大笑いしていた。そりゃそうだ。今まで何度も生死の境をさまよってきたこの二人にしてみたら、抗不安剤のデパス300錠なんてそれくらいの威力しかない。大阪を出てくる時は真剣に考えていたが、私もバカバカしくなって笑った。
トラブルの原因を作った男からメールが来たので「もう大阪には帰らない。これから死ぬつもりだ」と返信してみたら、お風呂を借りている間にすごい数の着信が入っていた。他の友人からも連絡があった。樹音さんと志信さんは私がそんなやり取りをしているのを見て少し呆れていた。とりあえず「もう死ぬつもりはないから大丈夫」とメールして事なきを得たが、私の怒りや悔しさはその程度では納まりがつかないくらい膨れ上がっていた。ちょっとぐらい困らせてやったっていいじゃないかと思って嘘をついたのだ。だからこれは病気の症状でも何でもなかった。結果的に周辺の人達との溝を深め、「もう自分達に関わらないでほしい」と拒絶される形になってしまったので、あんなこと言わなければよかったんじゃないかと後から悲しくなった。
深夜2時頃までおしゃべりしていた。樹音さんは寝る前の薬15錠をビールで流し込んでいたのに、目はランランとしていた。私は昨日殆ど寝ていないこともあって、ウトウトとしながら、樹音さんと志信さんが楽しそうに話しているのを隣で聞いていた。やがて毛布にくるまり眠りについたが、眠剤の効果はなく、朝4時半には目が覚めてしまった。樹音さんと志信さんも少しは眠っていただろうか。
朝、樹音さんのお父さんが朝食を届けに来てくれた。毎朝来てくれるのだという。優しそうなお父さんだった。樹音さんから聞いていた幼少期の家庭内不和なんて嘘なんじゃないかと思えるくらい。でも表面上はわからないだけで、色んなことがあったのだろう。
志信さんは仕事があるからと出かけて行った。確かまだ始めたばかりで、イベント関係のアルバイトだったように記憶している。樹音さんが「しのは週5も働けるなんてすごいね。私は絶対無理だよ〜」と言う。「私も無理だと思います」とうなずく私。
樹音さんの彼氏が車でドライブに連れて行ってくれた。百梅園というところに行って、もうすぐ満開になる沢山の梅の木々を見て歩いたり、ゲームセンターで遊んだり、138タワーの展望台に上って、岐阜の景色を眺めたりした。携帯だったけれど、写真を沢山撮った。樹音さんの彼氏も優しい人だった。2人のツーショット写真も記念に撮らせてもらった。
樹音さんと別れて名古屋へ移動し、この日の晩は、インターネットとは関係のない高校時代の先輩の家に泊まった。普通におしゃべりに花を咲かせた。病気のことやメンタルサイトのことはもちろん話さない。先輩が会社に行くのを見送って、夕方まで部屋にいさせてもらうことにした。志信さんから借りたお芝居のビデオを見たり、部屋の外に出て散歩してみたりした。
はるさんのバイトが終わるタイミングに合わせて部屋を出て移動し、居酒屋に入って手羽先を頼んで食べたりした。もう覚えていないが、私は酔っぱらうのが怖いからと控えめにお酒を飲み、「大学を卒業しても普通に就職して働くことは出来ないと思う」と話していたらしい。
はるさんの部屋へ行き、遅くなってから志信さんも合流し、3人で話した。何を話したかはもう覚えていないが、相当盛り上がったらしい。私は2時半ごろに睡眠薬を飲んで横になったが、その後もしばらく記憶がないままはるさんと会話していたらしい。
朝9時前に目を覚ましたら、志信さんはもう起きていた。もしかしたら殆ど眠っていなかったのかも知れないけれど。
朝食にはるさんが出してくれたおこわを食べて、名古屋の街に出かけ、きしめんを食べたりカラオケで歌ったりした。バイトに行くはるさんと別れて、志信さんと2人ラーメンを食べ、大阪行きの特急に乗った。
出だしこそ悪かったものの、すごく楽しい旅行になった。それでも、特急の中でうたた寝し、起きたらもう大阪の景色が窓から見えたとき、大阪に戻って来てしまったという実感が、私の中の恐怖を駆り立てた。また戻って来てしまったのだ。辛い辛い現実の中へ。

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第9章・はるさん

出来上がった新しいホームページの掲示板に、ウェブ日記「アライ場」の頃から見てくれている人達が、「開設おめでとう」の書き込みをしに来てくれた。日記はタイトルを変えてそのまま続けることにし、ホームページからリンクを貼った。ホームページの内容は他のメンタルサイトと同様、プロフィールや略歴、掲示板などなど。それに加えて、演劇を愛していた私は、今まで自分が見て感動した作品についてのページや、自分自身が出演した公演について書いたページを作った。他に、ドロドロの暗い詩を載せるページや、旅行に行ったときの写真を載せるページなども。壁紙の色もピンク、オレンジ、黒などと、ポップさとダークさが入り混じったような、不思議な雰囲気のホームページになった。
自分で本を買ってきて、いちから作り始めたホームページだったが、樹音さんのページで知り合った「志信」さんという人にとてもお世話になった。もともと樹音さんの入院友達だったという志信さんは、心理学やその他あらゆる分野の知識に長けている。自身のホームページなどは持っていなかったようだが、パソコンについても資格を持っていたりと、かなり精通していた。
志信さんからメールやメッセンジャーなどでHTMLタグについて詳しく教えてもらい、自分で作ってみたけれど上手くいかないページは手直しもしてくれた。
更に、彼女は高校・大学と演劇部に所属し、役者・演出・道具製作と何でもこなしたという。今でも有名どころの劇団の公演はよく見に行くらしく、それだけでも話が盛り上がった。メールのやり取りはお互い長文になった。
かなりアクティブで頭が切れる印象の志信さんだが、それは彼女の一面に過ぎず、樹音さんと並ぶ重度の精神疾患を抱えていた。3ヶ月に一度は問題を起こし、精神科の閉鎖病棟に入院させられるのだという。また、「解離性同一性障害」、いわゆる「多重人格」でもあった。確かに、メッセンジャーで話していても、「私」「あたし」などと一人称がコロコロと変わることがあった。樹音さんいわく、そういうときは彼女の中で人格が入れ替わっているのだという。厳しい治療を受け、人格のコントロールはほぼ完璧に出来るようになったと、志信さん本人は言っていたが。

こんな風にして、インターネットでは、現実の生活では出会えないようなタイプの人に会うことが出来た。現実では私の気持ちを、病気の辛さを理解してくれる人はいない。私自身も本音を言う気にはなれない。どうしても笑顔を作って、しんどさを隠してしまう。インターネットの方がよほど居心地がよかったし、そこで出会う人達の方が、よほど信頼出来た。

「はる」さんもそうだった。彼女は樹音さんのホームページから辿って、私のページにやってきた。彼女も自身のホームページを立ち上げたばかりらしく、色んなメンタルサイトを回って挨拶していたようだ。聞けば同い年だという。早速彼女のホームページを見に行ってみる。
「はる asifpersonalities」というタイトルのそのホームページは、白い無地の背景で統一されたシンプルなデザインだった。そこには、彼女のプロフィール、大学で臨床心理学を学んでいること、自分は境界性人格障害という精神疾患なのではないかという自己分析、そして、カウンセリングを担当してくれている臨床心理士に激しく依存していることが書かれていた。
両親が共働きで、小さい頃からおばあちゃん子だったはるさんは、母親との関係性に悩んできた。祖母ははるさんのことをとても可愛いがり、おやつにはバナナが皮を剥いて切り分けられ、フォークがささって出てくるほど大事にされていたという。はるさんも祖母によくなついていたが、それが母親は気に入らなかったらしく、「おばあちゃんはいつかお前のことを見捨てるんだからね!」と幾度となく言われたそうだ。それが彼女にはたまらない恐怖だった。
高校に入り、しばらくして精神科に通うようになった。そこでカウンセリングを担当してくれた臨床心理士の女性に依存してしまう。「あなたと一緒に生きていきたい」と、何度も手紙を書いて渡した。一応断っておくが、はるさんは女性である臨床心理士に恋心を抱いていたのではない。それよりももっと強烈な「転移感情(患者が、自分の親や恋人に対する感情を、治療者に対して投影してしまうこと)」だったのだ。あまりにも転移感情が激しく、カウンセリングを受けさせてもらえなくなってからも、彼女は毎日のようにクリニックに行き、待合室のソファに座っていた。臨床心理士さんに少しでも会えるのではないかと思い、朝から晩まで待ち続けたのだ。
大学に入学し、再び同じ臨床心理士のカウンセリングを受けられるようになったが、カウンセリング中に暴れて物を投げつけたり、心理士さんにハサミを突きつけたりもしたそうだ。
「骨と皮だけになったっていいよ。あなたと一緒に生きていけるのなら」何故そこまで臨床心理士のことを想うのか、当時の私は、自分の別れた恋人への経ち切れない想いと重ねて共感したが、それとは似て全く非なるものであるだろう。
臨床心理士の女性に対して強烈な転移感情を抱くはるさん。主治医が彼女につけた病名は「アスペルガー障害」だった。依存を「常動行動」であると位置づけ、携帯につけているストラップの緑色のリボンが気になって取ってしまったというエピソードを「色へのこだわり」と判断して、その診断に至ったそうだが、彼女は納得せず、自分はアスペルガー障害ではなく、境界性人格障害だと抗議した。精神疾患の診断基準であるDSM-10に記載されている境界性人格障害の診断基準一つ一つと自分の症状を照らし合わせ、細やかな考察をホームページ上に掲載していた。
同い年で、分野は違えど同じ心理学を学んでいるということにも親近感を覚えたが、彼女の言葉のセンスや、それらが醸し出す儚く刹那的な雰囲気に私は魅力を感じた。好きな本を大学の教授に馬鹿にされ、家に帰ってその本をビリビリに破いて捨ててしまったことや、通っているスポーツジムで親切にしてくれたおじさんに冷たい言葉を投げつけて立ち去る様子が日記には書かれていたが、一見子どもじみたとも思えるその感情のぶちまけ方にもまた、人を惹きつける何かがあった。実際、彼女のホームページには毎日沢山の人が訪れ、彼女を気遣う書き込みや「共感した」という書き込みも多く見られた。
私も掲示板に書き込みをし、彼女もまた私のホームページによく遊びに来てくれた。「一緒に生きていこうね」と私の掲示板に書き込んでくれたこともあった。精神を病み、死に憧れながら、どうしようもなく生きてしまっている私達の中で、彼女のその言葉は不思議な印象を私に持たせたが、彼女が少なくとも私を気に入ってくれていることはわかって、嬉しかった。仲良くなるのにそう時間はかからなかった。

その頃の私は、気分の波はやはり激しく、観劇やお芝居仲間の家に遊びに行って大はしゃぎする日もあれば、1週間ほど自分の部屋から出られないくらい参っていることもあった。入浴もとてもする気力が起きず、髪や顔がドロドロでももうどうでもいいくらいぐったりしていた。かと思えば、突然いても立ってもいられなくなり、部屋の模様替えをしたり、昔から好きだったビーズのパーツを買ってきて、アクセサリー作りに時間を費やしたりする。でもふと窓を見上げたとき、見えるのはどんよりとした灰色の空だけ。一体いつまでこんな生活が続くのだろう。
夜になると不安感やイライラに苛まれ、リストカットをしたりいつもより少し多めに薬を飲んだりして紛らわしていた。睡眠薬を飲んで布団に入り、雑記帳に「辛い辛い 辛い早く楽になりたい普通の幸せがほしい」と、乱れた字で記憶のないままに走り書きし、朝目が覚めてから見返して自分で自分にゾッとしたこともあった。「普通の幸せがほしい」そこまで思い詰めていたなんて。
自分の精神状態をどうやってコントロールすればよいのか全くわからなかった。20歳になったら真っ白い光に包まれて私は消えるんだ、それで楽になるんだという妄想を頼りに、日々を過ごしていた。

それとはまた別に「どうせ休学したなら、普段出来ないことをやってみたら?」という周囲の言葉に影響されていたのも確かだった。誕生日が来たら死のうと思っているはずなのに、誕生日の翌々日に、一人旅に出る計画を立てた。行き先は岐阜。樹音さんや志信さんが住んでいるところだ。
そういえば、はるさんは名古屋に住んでいるとプロフィールに書いてあったっけな。
もし会えるなら、会ってみたい。
ホームページに載っているメールアドレスに連絡をしてみる。間もなく返事が来た。かなりハイテンションな文面で「万障繰り合わせて、会いに行きます!!」と書かれていて、笑った。
顔も名前も知らない、インターネットだけで繋がっていた人達と、会える。

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第8章・休学とホームページ

2回生の6月下旬、ウェブ日記を書き始めた。タイトルは「アライ場」。
何てセンスのないタイトルなんだろうと思われるかも知れないが、別れた恋人とまだつきあっていたときに、大学の授業で簡単なホームページ作りをすると話したら考えてくれたものだった。それをそのまま使った。
樹音さんのホームページからリンクを貼ってもらったりしたおかげで、彼女のホームページで知り合った人達が遊びに来てくれた。もちろんあゆむさんもだ。他にも何人かの人達にリンクを貼ってもらった。少しずつ、日記に設置されているカウンタが回り始める。ワクワクした。
日記の内容は、そのとき参加していた劇団の公演のことから始まり、公演が終わると大学のテストやレポートのことになり、すぐに「しんどい、うつが辛い」というものに変わった。
当時私は、大学の演劇サークルには所属せず、小劇場の世界で社会人のアマチュアの人達と芝居作りをしていくことを熱望していた。みんな昼間は会社に行ったりアルバイトをしたりしていて、仕事が終わると稽古場に集まってくる。梅田・天王寺・日本橋などに点在している、50人ほどが収容出来るくらいの小さな劇場を借り、自分達で脚本も衣装も、大道具、小道具、チラシまで劇団のメンバーで手作りし、ゼロから自分達の手で一つの作品を作り上げていく様は、高校生の頃からの憧れだった。魅力的な劇団や、俳優さんも大勢いた。
2回生になったばかりの4月。結成されたばかりの劇団の旗揚げ公演に応募し、出演させてもらえることになった。私よりもはるかに場数を踏んでいる役者さんばかりの中、何故か主役に大抜擢。抜擢されたからと言って演技力が高いわけでは決してなく、稽古場では毎回ダメ出しの嵐。「前回注意したのと、全く変わってないやん。家で何練習してきたん?」と、厳しく叱られることもあった。家で何度脚本を読み返し、練習してもコツがつかめず、緊張とプレッシャーを抱えながら、稽古場に通っていた。
大学では、心理学専攻の授業が本格的に始まった。大多数の人が「心理学」と聞いて想像するような、カウンセリングや心理テストとは全く違う内容で(そういった「臨床心理学」を学ぶクラスは、別の学部に設置されていた)、学閥とでも言えばいいのだろうか、河合隼雄氏が日本で最初に心理学教室を設立した京都大学の流れを汲み、基礎的な統計学や実験方法からみっちり教え込むクラスだった。他の私立大学なら2週間に1回のレポート提出が、この専攻では毎週提出を義務づけられた。他にも統計学の授業、パソコンを使った授業、英語論文を和訳する授業など、ハイレベルなものを履修する必要があった。まぐれで大学に合格したような私は、そもそも基礎の学力が他の学生に比べて低く、数学的センスも皆無だったため、教授達が何をしゃべっているのか、同級生達が「わからない」と言っていることの何がわからないのかもわからなかった。
大学に行き授業を受けて、稽古場へ行き芝居の練習をし、終電近くで帰って来てから次の日の授業の予習をし、また台本を開いて台詞の練習をする。そして、パソコンを開いてメンタルサイトを見て回り、就寝。これらをこなしていくには、睡眠時間を削るしかなかった。2時や3時頃まで掲示板に書き込みをしたりしていて、翌朝寝坊し、1限の授業に間に合わないこともしばしばあった。でも、授業にもついていけず、芝居の稽古でも怒られてばかりでびくびくしていた私には、息抜きも必要だった。精神科で抗うつ剤と抗不安剤も処方されていたが効いているかはわからない、スッキリしなかった。今思い返せば、そんな状態でよくあれだけのスケジュールをこなしていたと思う。

6月末、何とか公演が終わった。散々怒られ悩みに悩んだ公演だったが、幕が開くと大勢のお客さんが足を運んでくれ、私の友人も沢山来てくれた。内容はコメディ。みんな「面白かった」と笑ってくれた。よかった。本当によかった。少しだけ、大人達に混じって小劇場で活動していく自信がついた。
しかし、どこかの劇団に所属しているわけではない。フリーでやっていくからには、もっともっと活動範囲や伝手を広げなければ。それに、大好きなお芝居を続けていれば、そのうちきっと気分の波もなくなって、元気になるだろう。
そんな気持ちで、8月・10月・11月と、やってみないかと誘われた公演のオファーを全て引き受けることにした。そのときは苦労しながらもそれなりに楽んで参加していたつもりだったが、今思えば間違いだったのかも知れない。まず6月の公演が終わった時点で何も手につかなくなり、抗うつ剤を変えてもらったが、状態は安定せず、期末テストもいくつか欠席した。夏休みに入ると稽古以外は1日中寝て過ごすことも多くなった。脚本を読み返したり、やりたいことは沢山あったが、なかなか手につかなかった。

何とか、何とかしなければ。必死にもがく一方で、もがけばもがくほどうつの深みにはまっていくような感じだった。バランスを保とうとしていたのかも知れない。苦しい胸の内を、作ったウェブ日記に書き綴った。自分の思いをさらけ出せる場所は、もちろんそこしかなかった。
「どうしちまったのだろう。昨日も今日もやる気が出ない。家でずっと寝ていた」
「何もせずにボーッとしたり、授業もうわの空だったり、やらないといけないことも全部後回しにしたり。ひたすら落ち込んだり」
「死にたい死にたいの嵐の中、レポートもテスト勉強も手がつけられなかった」

日記からリンクを貼った掲示板に、樹音さんやあゆむさんを始め、仲良くなった人達がメッセージを書いてくれた。「大変そうだね、大丈夫?」「あんまり無理しすぎないようにしてね」
嬉しかった。「ありがとう」と返信をしながら、何とかやっていけるような気がしたのも確かだ。メンタルサイトを通してのやり取りで、何とか自分を保つことが出来ていたような気もする。
うつ状態には波があったから、「うつの国から帰ってきた」と、明るい内容の日記を書いている日もある。買い物を楽しんだり、父に内緒でピアスを開けたりしたこともあった。でもそれも束の間。すぐにまた次のうつの波がやってくる。しかもそれは、前よりも大きく強力な波となって現れ、私を飲み込む。
どんなタイミングで波が来てどんな風に精神状態が変化するのか自分でもわかっておらず、波の激しさにただただ混乱していた。甘えているだけなのではないか、何故他のみんなと同じように、普通に元気に過ごすことが出来ないのかと自分を責めることもしょっちゅうあった。
うつ気分以外にも、道を歩いていても自分がどこにいるのかわからないような感覚に陥ったり、食事の味が感じられなかったりすることもあった。

公演本番を迎え、終了し、次の公演の稽古が始まり、を繰り返すうちに、うつ状態がひどくなっていった。最後の11月の公演の稽古期間中には、とうとう学校に行く気力も起きなくなった。朝、時間になっても、どうしてもベッドから起き上がることが出来ず、そのまま時間が過ぎていく。
自分の好きな演劇の稽古だけは行けるの?と思われるかも知れないが、アマチュアでも、小額でも見に来てくれるお客さんからチケット代をいただく限りは、決して公演に穴を開けてはならないという思いがあった。心理学の授業も大切だったけれど、それ以上に芝居の方が大切だった。それでも、稽古も1度や2度は休んだり遅刻して参加することが出て来てしまう。

「部屋の中はぐちゃぐちゃ。足の踏み場もない。増えていくのはゴミと手の傷だけ」
「おまえなんか生きてる意味ねえよ。死ねよ、ゴミ」
「こないだ首を吊る練習しましたよ。あ、死ぬときはコレだな〜、なんて思いました」

日記の内容も徐々に暗さが増し、過激になっていく。そして決めた。「11月の公演が終わったら死のう。それまではがんばろう」
根性焼きのようなつもりで手首を切るようになった。自分を奮い立たせるためだと思っていた。極力目立たないようにと今まで腕しか切っていなかったが、もう死ぬからどこに傷が出来ても気にしなくてもいいやと思った。
11月に最後に出演した公演は、思うように演技が出来ない自分があまりにもふがいなくて、稽古場で涙を流したこともあった。「泣く暇があるなら稽古しようや」と喝を入れてくれた相手役の人や、相談に乗ってくれた先輩のおかげで、何とか舞台に立つことが出来た。盛況のうちに本番は終了し、打ち上げが終わった朝家に帰り、これでやっと死ねるんだと思った。死ななかったけれど。
でも死にたかったから、しばらく演劇活動を休止することにした。大学も次の学年まで休学することにした。現実での活動は全てストップした。
樹音さんや他のネットの友人に「どうせ休学するなら、今しか出来ないことをやってみたら?」と言われ、どうせ死ぬから何かに手をつけても・・・と思いながら、ホームページ作りの本を買ってみた。ぼちぼちとインターネット上で配布されている素材などを集め、ネットの友人に教えてもらいながら、自分のホームページを作り、年末にとうとう出来上がった。タイトルは「A Hoydenish Life」。おてんばな生活、おてんばな命、という意味を込めた。「アライ場」よりも大きく、内容も増えた、新しい私の居場所が作られた。死にたい気持ちは消えなかったが、ホームページが出来たことは純粋に嬉しかった。

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第7章・父親
 亡くなる1年ほど前、転院先での母の検査入院が決まったとき、父はもじもじと笑みを浮かべながら私にこう言った。
「掃除と洗濯と食事、よろしくお願いします」
当時は私も何も考えずに笑いながら「こちらこそ」なんて言っていたが、今考えれば何て冷たい発言だったのだろうと思う。
普通、こういうときは、「お父さんもがんばるから、ミキも一緒にがんばろうな」と言うのが親として当たり前なんじゃないのか。

父はそういう人間だった。空気の読めないマイペースな人だ。
マイペースさはこちらの理解をはるかに超えている。毎朝決まった時間に起きて、決まった本数のタバコを吸い、決まったスケジュールをこなして、トイレすらも決まった時間に行き、決まった時間に床に就く。1年間365日、ほぼその繰り返し。
職場の飲み会に参加して夜遅くに帰ってきたとかいう記憶もほとんどない。せいぜい忘年会くらいだ。母が「つき合いに顔を出すのが嫌なら、せめて後輩に『これでみんなで飲んでおいで』っていくらか渡したらどうなの」と怒っていたのは覚えている。
旅行も嫌いで、母も出不精だったので、家族で遠出をしたこともない。会社の慰安旅行で沖縄に行ったときは、よっぽど嫌だったのか、3泊4日の間1度も着替えず、せっかく海水パンツを買って持って行ったのに、海に入ろうとすらしなかったそうだ。それくらい融通が利かなかった。
空気の読めなさも、小学生の私がおかしいと感じる程だった。まだ自分の部屋をあてがわれていなかった頃、居間で宿題をしていると、隣に座ってテレビを見ている父が話しかけてくる。「ミキ、ほら見てみ。おいしそうなステーキやで」
「お父さん、今宿題してるから話しかけんといてよ」しゅんとして黙り込む父。しかし、何日か経つとまた同じことをする。
宿題で書いた作文を机の上に置いておいたら、父が勝手に読んで添削していたことがあった。とても小学生が使うとは思えない言い回しを使って書き直されていて、さすがに母が「何やってるの」とたしなめていた。
この程度ならまだ笑い話だが、母が亡くなって以降、この空気の読めなさは父にとって致命的な欠点となった。

そして、異常なくらい不器用だった。
小さい頃、私が外で遊ぼうと父を誘うと必ず「お父さん、お尻に根が生えてるから嫌や」と言われた。無理矢理連れ出すと一応遊んではくれる。野球のボールを投げる仕草をよくしていたが、運動が出来ないのが十分よくわかるくらいぎこちなかった。自転車も「昔は乗っていた」と言うが、私は一度もその姿を見たことがない。
本棚に並んでいる本から1冊取ってほしいと頼んでも、どの本か見つけることが出来ない。「どこ?」「そこにあるやん、目の前」「どこ?」「そこやん!もういいわ!」自分で取りに行った方がはるかに早かった。
食べるのも下手で、みんながきれいに平らげていた和菓子をお皿の上でぐちゃぐちゃにしてしまったこともあった。母のお参りをしに行ったお寺での出来事で、恥ずかしくてたまらなかった。
母も「昔、お父さんがチャーハンを作ってくれたことがあったけど、フライパンを使いものにならなくしてしまった」と言っていたことがあった。歩くのも極端に遅いし、出かけるときはいつも母と私が先を歩いて、父が30メートルくらい後からとぼとぼついてくる感じだった。

父のこれらの行動を、母や叔母は「末っ子で甘やかされて育てられたから、何も出来ないんだ」と結論づけた。
私も母達にそう言われて、父は仕事以外何も出来ない人なんだと思っていた。
会社には真面目に行っていたようで、病気で休むと「あなたがいないと仕事がわからない」と家に電話がかかってくることもあったそうだ。課長、次長と昇進し、ある程度不自由のない暮らしを私達に提供してくれた。

母が病気になっても、父は一切家事を手伝おうとはしなかった。前述の通り母の入院中は私に全ての家事を任せたし、退院してきても何もせずにいつも通り過ごしていた。
そんな父を見ていたら、娘も何もしなくていいと思ってしまうだろう。
さすがに母が文句を言ったのか、叔母達に協力しろと言われたのか、週末はお弁当を買って来てくれるようになった。でも自分で台所に立とうとはしなかった。母が食事が出来なくなり痩せ細っていっても、自宅療養を断念し救急車で病院に運ばれる日の直前まで、父は母に朝食を作らせていたし、寝室の布団の上げ下げもさせていた。
さらに、母に問い詰められて余命をばらしてしまったのだ。憤る親戚に対しても、父は謝るどころか「今回のことはミキには伏せておいてほしい。母が亡くなった後にミキとの関係が悪くなっては困る」と平然と言ったそうだ。ごはんを目の前にしてぐったりとうなだれる母に「無理してでも食べろ」と言ったり、「自分は仕事に行くだけで精一杯」と、入院しても週に1度しかお見舞いに行かなかったりと、父の言動は明らかに自分本位で、家族に対しての愛情や思いやりが全く感じられなかった。私も、父のそういう態度に嫌悪感を抱き、母の状態が悪くなるずっと前から、父に話しかけられても無視するようになっていた。
そして、とうとう母が亡くなった。予期していたことだったのに、父はパニックになった。母の本籍地も自分の家の家紋もわからないと言い出し、中3の私に聞いてくる始末。葬儀場に入っても、父はこちらが恥ずかしくなるくらいめそめそと泣き、通夜でも葬儀でもハンカチがびしょびしょになるくらいに泣いていた。かと思えば、深夜の弔問客の対応に浴衣姿で出てくるなど、非常識な行動をいくつもやらかす。もう、わけがわからなかった。
極めつけに、母が「会いたくないから、私が死んでも絶対に呼ばないでくれ」と言っていた、絶縁状態の父方の兄を葬儀に呼んでしまい、母方の親族達はカンカンに怒った。葬儀が終わってしばらくしても親戚中にピリピリとした雰囲気が漂った。伯父や叔母は、事ある毎に全て父が悪いと私に言ったし、私も全て父が悪いと思っていた。

何でこんな奴のために、自分の時間を割いてごはんを作らなければならないんだろう。
私と力を合わせて生きていこうという思いはどこにも感じられなかった。学校からもらってきた書類を机の上に置いておいても、見ようともしない。
母が亡くなる前と同じように、マイペースに自分のことだけをやって過ごしている。
ああ、この人は私に興味がないんだな。自分のことばかり考えて、私を助けようと努力することすらしないんだな。
何日かに1回は夕食作りをサボるようになった。父は仕方なくお弁当を買ってきて食べたりしていた。
朝食も一切作らなかった。勝手にしろ、と思っていたが、ある朝私が自分のために用意しておいたパンを断りもなく食べていて猛烈に腹が立った。「私の朝ごはんはどうしたらいいんよ!?」と怒鳴ったが、父は黙々とそのパンを食べ続けていた。
こんな奴が自分の父親だなんて思いたくない。しゃべりたくない。同じ屋根の下に住んでいたくない。
話しかけられても無視した。用事があるときか、腹が立ったときに怒鳴るだけだった。母じゃなくてこいつが死ねばよかったのにとも思った。それだけ私が嫌っていても、父は自分の行動を一切変えようとしなかったのだから、不思議で不思議で仕方なかった。

大学に入り、発達心理学の教授の元でアルバイトを始めて、やっと気がついた。
父はもしかしたら、発達障害なのかも知れない。
極端なマイペース行動も、空気の読めない性格も、不器用な部分も、それで全て説明がつく。
なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう。
気づいたからと言って、父との関係がすぐに改善されるわけではなかったが、もしもっと早くに気づいていれば、ここまでお互い傷つけ合わずにすんだだろう。
もっと違う家族の形を、作っていくことが出来ただろう。父の罪であり、私の罪だった。
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第6章・母親

 母はとても神経質でヒステリックな人だった。
幼稚園の頃の写真を見てもわかる。真冬でも他の子が比較的薄着をしている中で、私は一人、タイツにハイソックスを穿かされていた。小学校に上がっても、ジャンパー以外は下着とトレーナーの2枚だけという子が圧倒的に多いのに対し、私は下着・長袖シャツ・トレーナー・ベストなど、4枚くらい着せられていて、担任の先生に「薄着にしなさい」と注意されたくらいだ。
中学校入学と同時に通い始めた塾でも、家から近いのに、帰り道が心配だからとわざわざ迎えに来た。友達と一緒に帰るから大丈夫、恥ずかしいから来なくていいと言うと怒られた。
一人っ子だから過保護になっても仕方なかったのだろうか。

過保護な半面、よく怒られた。
「あんたはわがままや」「生意気や」「人の話を聞かへん」などと決めつけから入ってお説教をされた。
部屋を散らかしていると、それを見つけた母が「片付けなさい!!」と怒鳴って荷物を蹴ってきた。今の時代にそんなことをしたら虐待と通報されるのがオチだろうが、「出て行け!!」と抱えられて玄関に放り出されることも何度かあった。
一度怒りに火がつくと収拾がつかなくなるらしく、文句を言って部屋を出ていき、また戻ってきては文句を言う、という行為を繰り返されることもあった。
そして愚痴の多い人だった。祖父母の近くに住んでいたので、食材の買い出しを毎日のように手伝っていたが、祖父母の愚痴をこぼし、聞いてくれる叔母(妹)の愚痴をよそでこぼし、気が合わないご近所さんの愚痴をこぼし、そして父や私の愚痴をこぼしていた。小6の時に新しい家に引越して以降はますますその傾向が強くなり、ヒステリーの度合いも激しくなった。引越しの荷物がなかなか片付かないことも、母のイライラを助長していた。
引越した最初の夏休み、冷房を効かせた私の部屋に電話の子機を持ってきて、電話相手の叔母に延々愚痴をこぼしていたことがある。私は座って、習字の宿題をしていた。気が散った。
電話を切った母に「宿題をしている傍で電話しないでほしい」と文句を言ったら、「誰がこの家買ったと思ってるねん!!」と怒鳴り散らして部屋を出て行った。
心の中で「お父さんだよ。アンタじゃないよ」とつぶやいたが、本人に言うともっと怒られるのはわかり切っていたので、やめた。

神経質でヒステリックな半面、デリカシーがなかった。
小さい頃、熱を出して寝込んでるのに笑われたことがある。頭が痛くて「痛い痛い」と泣いていたのに、母は傍らに座り「この程度のことで泣いて」と声を上げて笑っていた。私は本気で痛くて泣いていたのに、何故笑われなければならないのか、とても悲しかった。
定番の「お前はうちの子じゃない」もよく言われた。愉快そうに私に向かってこう言うのだ。
「あんたはほんまは、橋の下で拾ってきた子やねんで」
「お父さんとお母さんになかなか子どもが出来なかったから、おばちゃん(叔母)の家からもらってきたんやで。だからあんたはお母さんの子じゃないねん。おばちゃんのとこへ帰ったらどうや」
一度、冗談に耐えられなくなって大泣きしたことがある。「ほんまにおばちゃんとこの子なんかどうか、電話して確かめて」と。もう夜遅い時間になっていたのだが、母は仕方なしに叔母へ電話をかけた。
「そんなん冗談に決まってるのに、ねえ」
あんたからすれば他愛のないおふざけだったのかも知れないが、子どもの私にとっては重大事だったのだ。今でも思い出すとやり切れない気分になる。
他にも、洗面所で髪を整えているところに入ってきて「ハイハイ、キレイキレイ!おしゃれする子は不良になる」と言われたり、ノックなしで私の部屋に入ってきて洗濯物を出窓のカーテンレールに吊るしていくこともしょっちゅうだった。
嫌だと言えば「誰がこの家買ったんや!!」の決まり文句。友達と買い物してきた文房具を勝手に見ることも、机の引き出しを開けることも、母にとっては当然の権利だったようである。

極めつけ。
産後うつに陥っていたのだと思われるが、当時はどれくらい適切なケアが施されていたのだろう。きっと、本人もうつだと自覚していなかったのだろうが。
「お母さんな、あんたが1歳になった頃、毎日死にたいと思っててん。それで、あんたのために、この額縁を作ったんよ」
と、金箔があしらわれた、私の手形と足形をとった大きな額縁を見せてくれたことがある。どうせ訪問販売か何かに乗せられて作ったのだろうが、それを聞いた私が子ども心に母の「死にたい」をどのように受け止めていたのか、もう記憶は薄れてしまった。
「若い頃、死にたいと思って睡眠薬の瓶を沢山貯めていた」もよく聞かされた。そのせいで、死にたいと思うことはごく自然なことだと私の頭にもインプットされてしまったのかも知れない。
どちらも、私が小学校の頃のことだ。まだ小さな子どもにわざわざそんな話を聞かせる親が、世の中にはどれくらいいるのだろうか。
それらの発言は、やはり新しい家に引越してからさらにひどくなった。母は近所に折り合いの悪い人がいた影響もあり、引越すことを何年も切望していたが、環境が変わったことが逆に負担になってしまったのかも知れない。せっかく注文建築の新しい家を手に入れたのにストレスを溜め込み、愚痴が増え、何もしないでゴロゴロしているくせに「おばあちゃんの買い物があるから、家事があるから、ミキの世話があるから、荷物の片付けが、自分のやりたいことが、何も出来ない」と言われた。そして、毎晩のようにゴロゴロ寝転がりテレビを見ながら、父と私に向かって
「お母さん、もうすぐがんになって死ぬねん。あんたら、お母さんが死んでも何とも思わんのやろ?」
と言い続けた。正直とても鬱陶しかった。父も私も、何度目かにはもう返事をしなくなっていた。

中学1年の終わりに、母が「お腹にしこりがある」と言い出した。
おへそのすぐ横辺りに、ゴルフボール大のできものがあると言うのだ。痛みも伴う。近所の病院に行っても、冷やせとか温めろとか言われるだけで、処置は何もしてもらえない。
我慢出来ずに市民病院まで行き、このできものを取ってくださいとお願いした。部分麻酔の簡単な手術ですぐに終わったそうだが、付き添っていた叔母に抱えられるようにして、「痛い痛い」とうなりながら帰ってきた。「お母さんはもうすぐ死ぬねん」を散々聞かされて飽き飽きしていた父と私は、母がうなっているのを横目に何もしなかった。
そうして、取り除いた肉片の細胞診の結果が出た。主治医は母が診察室に入るなり「すみませんでした、がんでした」と頭を下げたと言う。まさか、本当にがんだったなんて。母は頭が真っ白になり、診察室を出た後廊下に座り込んでしまったそうだ。その夜、寝る前に父と私を呼び「あのできものはがんやってん」と、母の口から直接告げられた。私は軽く考えていた。数ヶ月治療すれば治るものなんだろうと思っていた。
それから母は何度も病院に通い、全身の精査をした。通常、いきなり腹膜に腫瘍が出来るとは考えにくく、内臓のどこかにある原発から転移したものだと考えられたが、隅々まで検査をしても、原発はどこにも見つからなかった。そうこうしているうちに、除去したはずの場所にまた新しいできものが出来た。おへその真下にももう一つ、むくむくと新しい大きなできものが。「ちょっとこれ、触ってみてよ」と何度かそのできものを触らされた。嫌だった。
主治医は患者のことを全く考えていない医師だったらしく、「もう一度手術をして腫瘍を取り除く」と言ったそうだ。「命の危険があっても、私は切ってみたいです」とまで言い放ったらしい。このままこの医者にかかっていては本当に殺されてしまう。叔母と母は別の病院を探し、そちらで治療してもらうことに決めた。すぐに検査入院と称して2週間の入院が決まった。
入院前日、叔母の家に呼び出された。叔母の家は私の家の斜め向かい。一緒に引越しを決めたからである。
「お母さん、相当悪いねん。末期も末期で、明日死んでもおかしくないって言われてる」
信じられなかった。どんなに憎たらしくても、自分の母親である。涙が出てきた。お母さんには絶対に言ってはいけないと叔母に口止めされ、家に戻ったとき母の前で取り繕うのに困った。
抗がん剤も放射線も何も出来ないと転院先の医師から告げられたが、母はまだ54歳。叔母達親族は、たとえ末期でも治すことが出来ると信じていた。だから、栄養のあるドリンクやサプリメント、アガリクス茸のエキスなどを母に勧めて、資金面でも助けてくれようとした。母も治ると信じ、それらの健康食品をせっせと飲み、プラセボで「経口の抗がん剤」として処方されたビタミン剤を飲み、にこにこしながら昔のアルバムなどを整理したりして、自宅療養に勤しんでいた。神経質でヒステリックでデリカシーがなくても、楽しいときにはにこにこと冗談を言って笑わせてくるのが、母のいいところではあった。
が、それも長くは続かない。診察時に医師の何気ない一言を不審に感じた母は、家に帰り父を問い詰めたのだ。父も口を割ってしまった。「お前の病気は治らない。持って3ヶ月だ」と。
自分が教えてくれと父に問い詰めたくせに、真実を聞かされた母は泣き崩れ、うつ状態に陥った。私の前でもヒステリックにキレたり、かと思えば「遊びに行かんと家にいて」と泣いて訴えられることもあった。何とかして母を助けようと奔走していた親戚達は父に激しく怒った。
大人達の間で何かあったということは私も感じていたが、事のいきさつは長い間隠されたままだった。退院してからしばらくは母も家事をする元気があったので大丈夫だと考えていたし、毎日目を真っ赤に泣き腫らしている母の待つ家に帰るのが嫌で、放課後は友達と遊び回っていた。他の子の家はみんな元気なのに、何故うちの家だけお母さんが病気でこんな思いをしなければならないんだろうとさえ思っていた。中2の終わり、叔母にひどく叱られて改心する頃には、母の病状は悪化の一途を辿っていた。
友達の誘いを断り、私が家事を引き受け、学校と塾以外は家にいるようになっても、母のうつ状態は改善しなかった。そのうち食事量が減って食べても吐くようになり、ガリガリに痩せ、お腹の腫瘍の痛みに耐えられず居間でグッタリと座り込むようになった。自宅療養は限界だ。叔母が救急車を呼び、入院することになった。
入院してからしばらくは元気にしていた。もともと豊満な体系だったのが骨と皮だけになり、食事もほとんど摂れていなかったようだが、毎日点滴をしてもらっているおかげで何とか体調が維持出来ていたのだろうか。お見舞いに行くといつもにこにことしていた。母のお見舞いと学校と塾と家事。これら全てをこなすために、私の睡眠時間は1日2時間になった。授業中に居眠りをし、立っているのも辛いくらいフラフラの状態で、何とか2ヶ月を耐えた。顔中にひどいニキビが出来た。
修学旅行の最終日、帰りのバスに乗り込もうとしているところを先生に呼び止められ、私だけタクシーで帰らされた。急いで病院にかけつけると母はモルヒネの注射を打たれてベッドに横たわり、朦朧としながら私を見て微笑んでいた。モルヒネの影響で言葉も明瞭ではなくなり、何を言っているのかほとんどわからなかった。私はお土産にと買ってきた真珠のネックレスを渡した。母は机にしまってあるノートを取ってほしいというようなことを言い、そこに震える字で何かを書き始めた。「えええええ延命ち治りょうはししないでででくださいいいいい」
泣いてはいけないと思いながらも、どうしても涙が止まらなかった。母はベッドの柵を両手で持って「檻の中のサルや」と笑わせてきた。こんな状態になってまで冗談を言って笑わせようとするのか、と切なくなった。
それから1週間後に、母は息を引き取った。意識がなくなった後も8時間もの間苦しそうに呼吸を続け、最後に胃の中に溜まっていた液体を大量に吐き出して、母の手を握り締めていた私の方を向きカッと目を見開いた。吸引に来た看護師さんがポロポロと涙をこぼしながら「呼吸、止まりますね・・・」と言い、それから当直の医師がやって来て瞳孔の確認をして腕時計を見、「23時4分です」と静かに言った。
「ありがとうございました」医師に向かって頭を下げた叔母が、病室の電話を取って別の親戚に連絡し、泣きながら言う。「みっちゃん、今亡くなったよ」
まるでドラマを見ているような光景だった。梅雨の真っ只中、外は雨が激しく降り続いていた。

お通夜、お葬式と怒涛のように時間は過ぎ、やっと家に戻れた頃、叔母が1冊のノートを持ってきた。
亡くなる直前に、母が親戚一人ひとりに向けてしたためた手紙だった。
私宛ての手紙は2通あり、痛み止めの副作用で誤字脱字の目立つ文章だったが、「素直な子になりなさい」「人の言うことはきちんと聞きなさい」と、そして「ミキちゃんの卒業、就職、結婚式、孫の顔、みんな、みんな見たかった!!」と書かれていた。
叔母も父もそばにいたので、泣きそうになるのを必死に我慢して読んだ。叔母は私に「な、お母さんは、最後まであんたのことを思ってたんよ。お母さんは、病気と最後まで闘って死んでいった、すごい人なんよ」と言った。私もその通りだと思った。そして、自分が病気の母に対してしてきた仕打ち、遊び呆けてなかなか家に帰らず、家事を手伝わなかったことを、心底申し訳なく思った。
20歳を過ぎるまでは、素直にそう思っていた。

死ぬ間際、カッと目を見開いた母は、私に何が言いたかったのだろう。意識が戻って、何か言葉を発するのではないか。何も知らない子どもの私は、そのとき本気でそう感じた。それくらいの恐ろしい迫力があの目にはあった。
死んでしまったので、もう何も話すことが出来ない。母に何を聞くことも出来ない。小さい頃に受けた理不尽な言動に対する恨みつらみも、母に直接ぶつけることは出来ない。

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第5章・生い立ち

一番古い記憶は、母親にベビーカーに乗せられ、家の近所の道を走っている光景だ。空は晴れて水色で、小さな雲が浮かんでいた。すぐそばの空き地には背の高い雑草が生い茂っていた。
母は嬉しそうに笑い、私も楽しくてきゃっきゃとはしゃいでいた。
年齢でいうと1歳くらいなのだろうか。よくそんな赤ん坊の頃のことを覚えているものだ。もしくは、誰かから聞いた話を元に、勝手に作り上げた記憶なのかも知れない。けれども、押し入れからおむつを取り出して「交換して」と母に渡しているときの記憶もあるので、本当かも知れない(実際本当に、歩けるようになった私は、自らおむつを取りに行き、母に渡して替えてもらっていたらしい)。
「小さい頃は目がクリクリして、素直で本当にかわいかった。転んでも泣かない子だった」
母は私のことをこう話した。
「でも大きくなってからは口ごたえばかりして、憎たらしい子」
実際母とは物心ついてからよく喧嘩もしたし、「クソババア」と憎まれ口を叩いて叱られたこともある。

父と母、共に33歳で結婚し、8年間の不妊治療の末に出来た子ども。それが私だった。
当時は結婚すれば子を持つのが当たり前で、なかなか子宝に恵まれない母は、「なぜあなたには子どもがいないの」と面と向かって言われ、みじめな気持ちになったことも少なくなかったという。諦めかけた頃、私がお腹に宿った。父方の祖父母、赤ちゃんの頃に亡くなった父の弟を供養するため、と、次男なのに仏壇を作ったらタイミングよく私が生まれたので、親戚からは神の子だとか仏の子だとか言われたらしい。
母方の祖父母にとっては10人目の孫だったこともあり、相当かわいがってもらった。

少々大事にされ過ぎたのだろうか。
幼稚園に行き始めてから、いじめに遭うようになった。同じクラスの女の子から仲間外れにされたりした。どんな内容だったかは忘れたが、気を引きたくて自慢話をしたら、「自慢する子は嫌われるんやで」「そうやで、嫌われるんやで」とそっぽを向かれた。悲しかったが、言い返す言葉を私は持っていなかった。
当時は、早生まれの子が、同い年の他の子に比べて発達が遅いという認識は浸透していなかった。2月生まれだった私は、勉強も運動も出来なかった。走るのも人一倍遅かったし、プールの水に顔もつけられなかった。音楽会の練習でシンセサイザーが弾けず、「どうして弾けないの」と担任の先生に怒られたが、自分でも何故弾けないのかわからずに泣くことしか出来ずにいた。

小学校に上がってもいじめは続く。幼稚園の頃よりもひどくなった。帰り道に男子に転ばされたり、後ろの席の女の子に色鉛筆を貸したら何ヶ月も返してもらえなかった。物を取り上げられたり、覚えてはいないが、首を絞められたと泣きながら帰宅したこともあったという。文化祭の出し物も一人で見て回った。エピソードは数えればきりがない。そのうち、頭痛や腹痛が起こるようになり、2年生の秋にはとうとうひどい下痢で学校に行けなくなってしまう。
母はそんな私を何故かはり治療に毎日通わせた。本当に何故かは今となっては全くわからないが、はりの先生と話していると私は明るい気持ちになった。学校には2週間ほどでまた通えるようになり、無事、3年生に進級することが出来た。
3、4年生の間は、少々変わり者の担任の先生の影響もあってか、いじめのないクラスに恵まれた。それまで足し算の繰り上がり、引き算の繰り下がりも出来ずに休憩時間に問題を解かされていたのが、急に成績が良くなり、漢字テストも毎回100点が取れるようになった。平和な2年間だった。
が、5年生でクラス替えをしてから、再びいじめに遭うようになる。体も大きくなってきて、女の子同士でも取っ組み合いになることがあった。いたずらの延長線のような雰囲気もあったけれど、嫌なものは嫌だった。
私が生まれる前から家探しをしていた両親は、隣の校区に新しい家を購入し、6年生の5月に転校が決まった。母は「これでいじめがなくなると思うとホッとした」と言っていた。が、私は学校を変わるのがたまらなく嫌だった。好きな男の子だっていたし、何より、5年も慣れ親しんだ学校や友人と離れるのが嫌だった。いじめられていたのに、何故そんな風に思ったのかはわからない。
引越して数日後、新しく出来た自分の部屋で、窓の外の景色を見ながら死にたいと思った。夕方そろばん教室に出かける頃にはそんな気持ちはなくなっていたが、死にたいと思ったのはそれが初めてだった。
転校した後、母は元の学校の同級生達から「おばちゃん、私らミキちゃんのこといじめててんで」と言われたそうだ。「あんたら、そんなことして楽しかったんか?」「うん、楽しかった」
平然と言われてとても腹が立ったという。他にも色んな出来事があり、彼女らと連絡を取り合うことはなくなった。転校先の学校で、新しく出来た友人達とのびのび過ごした。

でもそれは、長くは続かない。
中学校は地獄のようなところだった。荒れているのは市内でも有名だったようだ。
私達の学年は、男子と女子が全く口を聞かなかった。しゃべっていると陰口を叩かれた。そして、出る杭は打たれる。少しでも目立つ部分がある子は、聞えよがしに悪口を言われた。
「○○さんって頭いいよなー。めっちゃきしょい」
私もご多分に漏れず、この悪口の標的になった。塾で真面目に勉強していたことや、演劇部に所属していたこと、声も態度も大きかったことなどが理由だったのだろう。悪口を言ってきた奴に言い返しても「だまれ」「きしょい」「しゃべんな」と、会話にならない。
そのうち、男子は「軍団」、女子は「ギャル」と呼ばれる不良集団が学年の中心的存在になっていった。彼らのお気に召さなかった子は靴を隠され、机に整髪料をぶちまけられ、雨の日にカバンを窓から投げ捨てられたりもした。ひどい場合は暴力沙汰になることもあった。窓ガラスはしょっちゅう割られた。
毎日毎日びくびくしながら学校に通っていた。今日もまた悪口を言われるのだろうか。もし靴がなくなっていたら、椅子の上に画鋲が置かれていたら。
一度「学校に行きたくない」と休んだら、母から担任に報告されてしまったことがあったが、担任は同じように悪口を言われていた別の女の子をかばうばかりで、全くあてにならなかった。朝起きたら布団に溶けて消えてしまっていればいいのにと、何度思ったかわからない。
そんな状況の中、中2の春に母に末期ガンが見つかり、自宅療養の末中3の6月に亡くなってしまった。母の話は別の章で書くこととするが、お葬式のとき、私のことを嫌っていたはずのギャル達が大勢励ましに来てくれた。結局、忘れた頃にまた嫌われて悪口を言われたりするのだが、気まぐれで優しく接してくるギャル達を憎み切ることは出来ず、複雑な気持ちになった。
何度かズル休みはしたものの最後まで通い続け、悪口と、机を荒らされたのと、嫌がらせで学級委員に祭り上げられただけで何とか卒業出来た。私はきっとマシな方で、全く出席出来なかった不登校の生徒は学年で10人以上に上った。

もう二度とあんな思いはしたくない。
そう思いながら期待と不安いっぱいで入学した高校。伝統のある学校で、偏差値も人気も高かった。
嫌な奴もいたが、さすがに高校ではいじめはなかった。また演劇部に入り、大学生や社会人で演劇を志している人達とも仲良くなる機会があり、クラスでもある程度友人が出来て楽しく過ごしていたつもりだった。
なのに、うつ状態になることが度々起こり始め、「死にたい」と考えるようになった。2年生の始めに憧れていた劇団のエキストラ選考に落ちてからは気持ちの浮き沈みが顕著になり、学校も度々休むようになった。
「死にたい」気持ちを、メールで顧問の先生に曝け出したこともある。けれども何度かのやり取りの後に「生徒とは明るく前向きな話がしたい」と言われた。ああ私は変なんだ、もう言わないでおこうとそのとき思った。
これは大学生になっても続く傾向だが、当時の私は自分自身のことを全くわかっていなかった。
笑顔で明るくて元気いっぱい、少々睡眠時間を削ってもへっちゃら、母親のいない家を切り盛りして、部活をがんばり、大人のお芝居の世界にも顔を出し、体育は苦手だけど勉強はがんばり、友人関係も広く・・・。実際に演劇部の同級生にこういうタイプの女の子がいて、学年でも一目置かれている存在だった。私もそういう風になれるはず、いやならなきゃいけない、そう思って突っ走りかけてはすぐに挫折して、の繰り返しだった。そして時々うつ状態に襲われた。
それでも当時はそれが当たり前だと思っていたし、うつになるのも「死にたい」と思うことも、誰もが経験していることだと思い込んでいた。

3年生になり、部活を引退し、本格的な受験対策が始まる。私は案の定その波に乗り遅れた。
元々進学はせず、公務員になって演劇を続けようと思っていた。たまたま親戚にかけられた「大学行きなよ」の一言で受験を考えるようになるのだが、私の志望校はそこそこ偏差値の高い公立大学。就職クラスに在籍していた私が受験するのは非常に難しく、また、今までテスト前だけ丸暗記の勉強しかしてこなかったため、きちんとした学力は身についていなかった。
それでも、と思い、数学の先生に頼み込んで参考書を貸してもらい、自分なりに受験勉強を始めてみたものの、なかなか身が入らない。夏休みに入り、予備校に通う同級生も増え始めた。私は家の経済面も考え、自宅で一人で勉強することにしていた。まずは好きな日本史から・・・参考書を開いて解き始めるものの、眠くなりベッドに横になってしまう。気がついたら夕方。その繰り返し。
「何故こんなにもやる気が出ないのだろう」次第に追い詰められ、参考書を開いて机に向かうと頭痛がするようになった。自業自得だと思うが、もうどうしていいかわからなくなっていた。
追い打ちをかけるように、憧れていたお芝居の先輩に彼女がいることがわかり、失恋してしまう。ショックを引きずったまま2学期を迎える。他の子達との学力の差は大きく開いていた。
何とか、何とかしなければ。参考書を買い込み、放課後の講習に参加し、周りの友人らと励まし合って、地道に勉強を始めた。のろのろ運転だったが、少しずつ成績は上がっていった。失恋しても諦められない、志望校に合格して、大好きな先輩に見合うようにならなければ。そんな不純な動機だったが、とにかく勉強した。冬休みは予備校の短期講習に通った。
センター試験はボロボロ、志望校の前期試験も手ごたえが悪く、当然の不合格。自信がなかったのに滑り止めを受けなかった私は、浪人を覚悟した。1年間通う予備校探しを始めた。
ところが、奇跡が起こった。後期試験の小論文で、私は見事志望校に合格したのだ。小論文のテーマが少し前に家で解いた過去問と少し似ていて、途中で諦めて机に突っ伏している人もいる中、すらすらと最後まで書けてしまった。でも、評価はボロボロだったセンター試験との合算になるので、「手ごたえがあった」とは誰にも言えなかった。当然、吉報を聞いた先生も友人達も誰もが驚いたし、私も合格発表の掲示板を見てオロオロと涙をこぼした。
そのとき確信した。「諦めなければ、いつか絶対夢は叶う」
絶頂期だった。一悶着あったものの、憧れだった先輩が彼女と別れ、私とつき合ってくれることにもなった。人生怖いものなしの状態だった。
「諦めなければ、信じて願い続けていれば、夢は絶対叶う」半年後、その思いが打ち砕かれて、絶望の底なし沼に落ちてしまうとは想像もせず、満を持して大学の門をくぐった。澄み切った春の空気に、桜の花びらがひらひらと舞っている。

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第4章・メンタルサイト
 大学が春休みに入ろうとしている頃、樹音さんが自身のホームページを立ち上げた。BLUEの掲示板に、宣伝と共にアドレスが書き込まれており、早速見に行く。
「樹音大学北2階病棟〜メンタルサイト〜」という、心理学を熱心に学び、いつかは自分も心理職の道をと考えている樹音さんらしいタイトルが表示されたトップページは、彼女のイメージにぴったりな落ち着いたグリーンの壁紙だ。出身地である、岐阜の美しい自然を収めた写真も掲載されている。
ホームページの内容は、自己紹介ページ・日記ページ・掲示板・お絵かき掲示板・チャットなど、ごくごく普通の個人サイトと同じ。だが、ここで語られるのはごく普通の趣味や日常ではない。精神を病み、悩んだり苦しんでいる者同士が、その辛さを吐露したり励まし合ったりする場所。メンタルサイトと呼ばれるホームページはそういう場所で、サイトに出入りする、精神を病んでいる者はメンヘラーやメンヘルなどと呼ばれる。私はそう理解していた。
早速、出来たての「樹音大学北2階病棟」の掲示板に書き込みをしてみる。BLUEでの宣伝を見て辿り着いた人や、元々樹音さんと交流があった人達などで、ホームページはあっという間に賑やかになった。
自己紹介のページには、樹音というハンドルネームの由来が書かれてあった。今のSNSなどとは違い、当時はインターネット上で使う名前、ハンドルネームというものを、出入りする人は皆持っていた。ペンネームみたいなもので、出入りするサイトごとに使い分けている人もいた。私は本名そのまま「ミキ」と名乗ることが多かったが、凝ったハンドルネームを使っている人も沢山いた。
樹音さんの場合、自分の本名からヒントを得、音楽が好きであることから「樹音」。映画の「呪怨」をもじったともあり、笑えた。
自己紹介のページから、さらに自分の略歴ページへとリンクが貼られており、そこには彼女の生々しい「過去」が書かれていた。幼少期に公園で遊んでいたら、見知らぬ男の人からわいせつな行為を受けたそうだ。その記憶は抑圧され、何年も思い出さずに過ごしていたが、成長と共に様々な症状となって体や心に表れ、彼女を苦しめる。
同時に、家庭環境も上手くいっておらず、父親は樹音さんが幼稚園の時に2年間不倫をして家を出て行ったあげく仕事に逃げ、また母親も情緒不安定な人で、夫への怒りをまだ幼い樹音さんにぶつけた。「子どもがいるから離婚出来ない」「子育てに人生を奪われてしまった」などと言われ続け、ひたすら母親の機嫌を伺いながら彼女は育った。
今は実家を出て、下宿先のおばさんに世話になっているという。その下宿先でも錯乱して暴れ、取り押さえる人達を振り切ってベランダから飛び降りようとしたこともあったそうだ。
私は当時家の中で泣き叫んだり、壁を殴ったりすることはあるものの、そこまで取り乱したことはまだなかった。叫び狂って発作的に身を投げようとしている樹音さんの姿を思い浮かべてみる。一体今までどれだけ苦しんできたのだろう。そして、現在もその忌々しい「過去」に苦しめられ続けているのに、その「過去」を語る彼女の文体は穏やかで、達観した印象さえ受けていた。彼女の「ファン」と名乗る人が掲示板に現れるくらいである。
大学は入退院を繰り返した影響もあり、現在は6回生で休学中だという。この春から復帰する予定だそうだ。
今は通院で、薬物治療を受けている。相当な種類と量の薬を毎日飲まなければならないらしい。どうりで、薬のマニアックな知識を沢山持っているはずだった。

掲示板に書き込む回数が増えるにつれて、樹音さんと直接メールのやり取りをすることは少なくなっていった。
ホームページには毎日色んな人が訪れる。私のように、ホームページが開設される以前から樹音さんと知り合いで、常連となっている人。別のホームページの書き込みなどから辿って来て、挨拶をする人。覗きに来たという印に「とりあえず足跡代わり」の書き込みをする人。そういった書き込みに添付されているリンクを辿って、私も知らない人のホームページを見に行ったりもした。沢山の人達が自分のホームページを持っていて、日記を公開したり、見ず知らずの人達とのインターネット上での交流を楽しんでいることを知った。見ず知らずの相手だからこそ、正直な本音を書き連ねたり、話し合ったり出来るのかも知れない。
リストカットで血まみれになった自分の手首を写真に撮って掲載したり、空虚感に耐えられず行きずりの人とセックスをしたことなどを日記に書いている人もいた。オーバードーズも、自殺未遂も、何でもありのどす黒い、吐きだめみたいな世界。ここでしか吐き出せない。
それがメンタルサイトだ。
でも、どす黒い吐きだめみたいな世界でも、出入りするのが楽しかった。何でも正直に話せる存在がいて、お互いに励まし合える存在がいて、暗い話ばかりではなくたまには冗談も言い合える。現実の大人や友人には知り得ない、私だけの秘密の世界がそこには広がっていた。

そんな状況の中で、樹音さんと大学が同じ大学の出身で、お互いによく見知っているという「あゆむ」さんという人物がホームページに遊びに来ていた。あゆむさんはかつて声優を目指し、演劇をかじっていたこともあると書き込みから知り、中学高校と演劇部に所属し、今も演劇を志している私は、彼女と仲良くなりたいと思い、掲示板上で挨拶をさせてもらった。うつと社会不安障害に悩むあゆむさんは、人前に出ることに恐怖感を抱くようになり、演劇はもうしていないという。
あゆむさんはホームページは持っていなかったが、「さるさる日記」というレンタルツールを使い、インターネット上で日記を書いていた。このツールはブログの前身のようなもので、自分専用の日記スペースを借り、1つの記事につき1000文字までの好きな内容を書き、日付とタイトルをつけて公開することが出来る。彼女の日記には、病気のこと、生活での悩み、家族の愚痴や、好きな小説のことが書き綴られていた。
顔も名前も知らない人同士でのやり取りが圧倒的に多い中で、あゆむさんのような現実での友人と樹音さんがインターネット上でやり取りしているのは、最初は何だか不思議な感じがした。人生略歴や日記は赤裸々な内容も多かったので、恥ずかしくなったりしないのかなと思ったりした。でもそういうことはないみたいだ。

ほぼ毎日のようにパソコンを開き、BLUEや樹音さんのホームページを見て回り、書き込みをするのが日課になった。そういったホームページを通して仲良くなった人も何人かいた。インターネットをする時間は、2回生に進み、念願の心理学専攻に入れたものの勉強に全くついていけず、また演劇の稽古でも、演技力のある大人達に混じって孤独感を感じ、毎回厳しいダメ出しをされながらもがき続けていた私の、最後の砦のようなものになっていた。精神科にも通い続けており、うつ状態と普通の状態とを行ったりきたりし、全く安定しなかった。どうすればよいかわからない行き場のない気持ちを何とかしたい一心で、リストカットも始めていた。
交流の中で、自分でも日記を書いてみたいという気持ちが湧いてきた。子どもの頃の夢は「女優さん」で、大学生になった今でもプロの役者を目指し、見に来てくれるお客さんに夢や感動を味わってほしいと思うような人間だ。自分の書きたいことをインターネット上で公表して、それを見に来てくれる人がいたら嬉しいな、と思うようになっていった。そしてとうとうレンタル日記に登録することにした。あゆむさんも使っている「さるさる日記」だ。ユーザー数も多く、一番使い勝手が良さそうだと思った。ハンドルネームやメールアドレスなどを入力し、登録ボタンを押すと次の瞬間には自分のページが出来上がっている。背景や文字色は自分の好きなものに設定することが出来る。わくわくした。
樹音さんのホームページの掲示板で、日記を作ったことを報告した。今のブログとは違いコメント欄がなかったので、掲示板もレンタルし、日記ページとリンクを貼って、見に来てくれた人が感想を書き込めるようにもした。
恋人に裏切られ、親とは全く話をしない、大学にも演劇界にも自分の居場所はなかった。友達も、心から本音を言い合える人はいなかった。そんな私の、唯一の居場所のつもりで、作ったのかも知れない。

この半年後、休学期間中に、本格的な自分のホームページを立ち上げた。そこでさらに色んな人達と知り合い、現実での交流も含めて、繋がっていくことになる。
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第3章・ネットの世界
 その日を境に、私はメンタルサイト「BLUE」に毎日出入りするようになった。病院へ行ってきたことや、イライラすること、夜眠れないことなどを書き込むようになった。樹音さんを初め、入れ替わり立ち替わり、誰かしらが励ましや慰めのレスをつけてくれた。「荒らし」という、心ない批判や文句ばかり書き込む人もやって来てはいたが、幸い私はその被害には遭わずに済んだ。
樹音さんとは個人的にもメールでやり取りした。私が初めて処方された、ルボックス・ワイパックス・デパスについても簡単に教えてくれた。
その薬を初めて飲んだ翌日の記憶が全くなく、目が覚めると机の上に置いてあったはずのコップが割れていて驚いた。コップを落して拾おうとしたのは覚えているような気がするが、割れていたとは思わなかった。樹音さんに相談すると、薬の副作用だろうと返事をくれた。
抗うつ剤などは、効果が現れるまで2週間以上かかるらしい。飲めばすぐに元気になれると思い込んでいた私は、記憶がなくなるほどの副作用が出るとは思っていなかった。飲み初めて1週間、まともに歩けないほどのふらつきに襲われた。テスト前なのにこれは困る。教室の中を歩いていても机にしょっちゅうぶつかってしまい、さらには激しい眠気に襲われて、授業中もとても起きていられる状態ではなくなってしまった。
昼間はそんな風なのに、夜になると眠れなくなり、イライラが治まらず、大声で泣き叫ぶようになった。まるで今まさに恋人と別れ話をしているような、目の前で浮気相手が捨て台詞を私に吐きかけるようなそんな感覚がいっそう強くなったような気がして、「何でよ!何で!!」と叫ばずにいられなかった。ちゃんと薬を飲んでいるのに、何故そんな風になるのかわからなかった。イライラ止めのデパスもあっという間に使ってしまい、樹音さんのアドバイスを受けて、新しい薬をもらいにまた病院へ行った。初診から1週間後のことだった。

1度行ってしまえば、2度目の受診は苦痛ではなかった。輪番制の土曜日なので、初診を担当してくれた若い医師ではなく、中年の男性医師が診察室に座っていた。
ふらついてたまらないので、とりあえず薬を変えてもらうようにお願いした。抗うつ剤はドグマチールというものになり、抗不安剤はワイパックスからデパスに変更となった。イライラ止めと、睡眠薬も処方してもらったと思う。これでふらつきや、夜中のイライラや不眠が治まってくれればと期待した。
中年医師は、薬の話の後に、何故私がうつになったのか、きっかけがあるなら聞かせてほしいと言った。私は「あの出来事」について話した。
医師は私の話を聞いて、しみじみとこう言った。
「1年くらい経てば、その彼のことも忘れて、あなたにも新しい恋人が出来てね・・・」
普通の、ごく一般的なアドバイスなのだろう。医者とかそうでないとか関係なく。けれどこの言葉は逆に私を刺激した。
私は彼のことが本当に好きだったのだ。1年経てば忘れられる保障なんてどこにあるんだ?
あの人を失った私の苦しみなんて、この医師は、医師のくせに何もわかってくれないのか。
どこにでも転がっているありきたりな理由でも、時が経てば浄化されて忘れていくような出来事でも、当時の私にとっては深刻で、忘れられるとはとても思えなかったのだ。
黙って頷いていたけれど、このおじさん先生の診察は二度と受けないでおこう。そう思って診察室を出た。

「いるよいるよ。ミキちゃんがむかついたような発言する医師。
『は?おみゃーに人生相談受けに来とるんじゃにゃーわ!ボケ!』っと思った」

BLUEや樹音さんに愚痴ってホッとした。自分の思いを受け入れて、共感してもらえることはありがたかった。
樹音さんは私に、大学の学生相談室に行けば、カウンセラーに話を聞いてもらえることを教えてくれた。そういえば、私の学校にもそういう相談室があると聞いたことがある、と思い出し、早速手続きをしに行った。
他にも、精神保健福祉法32条というものがあることを教えてくれた。申請すれば、精神科の診療費、薬代がかなり抑えられるというもので、父子家庭で父親は定年間近、アルバイトもしていない私は、すぐに申請することにした。精神科の薬についての知識を持ちたいと思い、お薬辞典も買いに行った。

同じ大学生だからだろうか、同じ心理学専攻だからだろうか、程度の差こそあれ、同じこころの病気だからだろうか、樹音さんと仲良くなるのに時間はかからなかった。親にも誰にも、精神科に行ったことは話していない。周りの仲間や友人に話したって、理解してもらえない。実際、親友だとお互い言い合っていた友人に「何でそんな薬なんか飲むの?」と嫌そうな顔で言われたりもした。今、本音を吐き出せるのはBLUEだけで、親身に相談に乗ってくれるのは樹音さんだけで、その存在を身近に感じ、ありがたいと心から思っていた。
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第2章・受診
 翌朝。
その日はしとしとと雨が降り続いていた。重い体を起こしてお風呂に入り、湯船の中でうずくまった。前の日は動く気力も起きなかった。それに比べれば今日はまだ楽な方だ。楽だからこそ、いざ病院に行ったとしても「異状なし」で帰らされるのではないかと不安になった。
タウンページとインターネットで病院を調べる。自宅から数駅離れた、入院設備もある大きな病院に行ってみることにした。根拠はないが、当時は小さなクリニックよりもそちらの方がより信頼出来るような気がしていた。
電車に乗って駅に着き、傘を差して病院の前まで歩いた。決心していざ目の前まで来たものの、中に入る勇気が出ない。そのまま建物の周りをぐるぐると1周してしまった。
迷っていても仕方がない。意を決して自動ドアをくぐり、初診受付へ向かう。問診票と、心理検査のようなものを渡されて記入する。
土曜日の診察は午前中だけで、担当医は輪番制だった。診察室は3つあるが、今日は1つしか使われていない。広い待合室を見回してみる。10代の女は私だけで、後は私の親くらいの世代の男女がぱらぱらと座っている。たまたまかも知れないが、男性の方が多いような気がした。やはり場違いなところに来てしまったのではないだろうかと再び不安になった。
しばらくして受付番号を呼ばれ、診察室に入った。若い男性の医師が座っている。今日はどうされましたかと聞かれ、昨年の秋頃から気持ちが落ち込むこと、死にたいとばかり考えてしまうことなどを話したと思うが、細かい内容はもう覚えていない。そして、「あの出来事」についてはこの日は言い出さなかった。
医師はおっとりとした口調で、私の家族構成などを尋ねた。なぜそんな情報が診療に関係があるのか、当時の私にはわからなかった。
「軽いうつ状態が繰り返し起こっているのでしょう」医師は言った。「昨日の方がしんどかった。今日は少しマシになった」と恐る恐る話す私に、「ましになったから病院に来れたのですね」と穏やかに答えてくれて、そういうことなのか、と少し気持ちが楽になった。「マシになったのなら病気ではない。あなたの気の持ちようだ」と言われるのではないかと思っていたからだ。勇気を出して病院へ来てみてよかったと安心出来た。
そして、ルボックスという名の抗うつ剤と、ワイパックスという抗不安剤、イライラ時の頓服としてデパスという薬が処方された。薬局に処方せんを出し、薬をもらって帰る。これで楽になるんだ、私は元気になれるんだと思った。

帰宅後、パソコンを立ち上げる。すると、メールボックスに意外な人からのメールが届いていた。

「ミキさんはじめまして。
私は某大学所属の樹音(じゅおん)と申します」

病院に行くべきかどうか相談した「BLUE」というサイトで、私の書き込みにレスをつけてくれた3人のうちの一人だった。今ならそんなことはしないが、初めてのことで勝手がわからず、書き込みの際にメールアドレスも添付していた。それに気がついて、励ましのメールを送ってくれたのだった。

メールには、樹音さんの簡単な自己紹介が添えられていた。臨床心理士を目指して大学に入ったものの、リストカットや自殺未遂を何度も繰り返し、今では精神障害者3級だという。しかしながら、心理職への道は諦めていないそうだ。相当勉強も重ねているようで、薬に関しても沢山の知識を持っているという。

「同じ心理の世界を目指すもの同士ですから、よかったら遠慮なしに何でも相談してくださいね。
それが言いたくてメールしました。」

「BLUE」にはよく出入りしている人のようだから、こうやって沢山の人にメールを送っているのだろうか。それとも、私だけにわざわざ送ってくれたのだろうか。
何にしても驚いたし、嬉しかった。すぐに返事を書いた。

「今朝は少し気分が楽になっていたのですが、とりあえず病院に行ってきました。
薬を2週間分もらいました。
副作用がどうのこうの書いてあって、ちょっと怖かったけど飲んでみました。少しは変わるでしょうか。最近色々考えることが多くて、自分が今までとは違う人間になってしまったような気がしていました。
これを機にうつから抜け出せればな、と思います。」

精神科の扉を叩いたのを機に、彼女との出会いを機に、インターネット上で沢山の人々と出会うことになるとは、まだこのときは思いもよらなかった。そして、自分が想像していた大学生活とは全く違う方向に進んでいくことも、想像もしていなかった。
18歳の私は、まだ何も知らなかった。
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